私の二女は、ドイツ国際平和村の事務局で働いています。女優の東ちづるさんは、戦場で傷ついた子どもたちのリハビリなどをしているこの会を支援してくれており、また「ウルルン滞在記」などで取りあげてくれてご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
二女の強い要望で私たち夫婦がドイツとお隣のオランダを旅することになりました。何と、滞在費用一切は娘が出してくれました。何とありがたいことか。
ついでにドイツの税理士と直接話してみたいとの所望を実現してくれました。娘が住んでいる近くで開業している少しお年を召された方でしたが、貴重な体験でした。税理士制度は、ドイツ、韓国、日本で古くから制度化され、文献ではなく実際に実務をされている税理士と話がしたかったからです。
懇談する日は、勝負服として日本から持参した大島紬で訪問しました。午後3時の約束ですが、3時ちょうどに娘のアパートを出て、徒歩約2分のところにある税理士事務所兼自宅にしている税理士のお宅へいきました。日本では約束の時間5分前に到着して待っているのがビジネスの常識だとされていますが、ドイツでは約束の時間より2~3分程度遅れて会うのがエチケットとされているそうで、同じ「まじめ気質」の日本人とドイツ人の待ち合わせ慣習も違うことにまた異文化を感じました。
玄関で40代の女性が日本語で「こんにちは」と挨拶してくるのでビックリしました。オフィスは女性とその女性のお母さんともう一人の男性の三人体制で運営していることがわかりました。事務所の様子を少しですが見せてもらったあとにリビングに通されました。
お母さんは1975年に税理士試験に合格したというからもう38年の経験を持つ大ベテランです。おそらく80歳位の年齢と思われます。娘さんはこの事務所でお母さんと一緒に働いているそうです。お母さんは、「私は、娘が税理士試験に通るまで仕事やめたくてもやめられない。」と言っていたので、恐らくここで娘さんは働きながら試験勉強をしているのであろうと容易に想像できます。娘さんはコーヒーメーカーでコーヒーを入れてくれ、私たちに勧めてくれました。
娘さんも席に着いていくつかのランプシートのローソクに火を灯し部屋の照明が消されました。昼間だけどリビングのテーブルは、ローソクの照らすテーブルの上だけがぼんやり灯りがあるだけで薄暗いのです。改めてドイツはローソクの文化なのだと実感しました。テーブルには何種類かのクッキーが皿に盛られていました。どれが自家製でどれが市販のクッキーかの説明を受けました。ドイツではどこの家でもクリスマス前は自家製クッキーを毎朝焼くのが習慣だと説明され、「どうぞ」という言葉に甘えてすっかりご馳走になりました。
私の質問には、娘さんが中心に質問に答えてくれてお母さんがそれを補足し、娘が通訳をする形式をとりました。
日常業務・・・・毎月、四半期、年一とお客さんとの契約があるそうで、日本とまるで同じです。
法人・・・・・クライアントが法人を設立する場合は、ドイツは書類文化なので大量の書類作成のお手伝をすることになるが、これが大変だということです。
個人・・・大工、医者などの個人営業のところは給与所得とは違うので計算が複雑で大変になるのは日本と変わりません。
相続・・・・子どもだと税金が安くなるが、内縁の妻(意外に内縁関係の夫婦は多いらしい)だと相続権はあるが税率は高くなるそうです。相続の申告には6つの法律を駆使しないといけないので苦労するそうです。
娘さんは以前、デュッセルドルフで日本のある商社の支店で働いていた経験があるとのことがわかり、挨拶程度の日本語がしゃべれるのに納得しました。
税理士事務所・・・・規模の大小さまざまで、一企業に専属している税理士もいるそうです。お母さんの友人は、5人の税理士が事務所を経営していてスタッフが80人の事務所だそうです。オーバーハウゼン市(日本企業が集積しているデュッセルドルフから北へ30キロの人口21万人の小都市)でも約80人の税理士が登録しているそうです。
税理士試験のシステム・・・・受験資格は3年間専門の勉強をするか、税理士事務所で10年間働いていることが条件。まず、200ユーロ(約2万6千円)で受験のための書類を書き、認定を受けるがその認定がなかなか受けられないとのことらしいのです。日本では、受験資格は法改正で比較的簡単になっています。
認定されれば、1,000ユーロ(約13万円)の受験料を払い本試験を受けるのですが、事前にリサーチしていたとおり、人生の内わずか3回しか受験のチャンスがないことはやはり事実でした。ただし、認定料、受験料の高さにはいささか驚きました。勉強して認定を受けて合格するまで平均10年はかかるとされているそうで、日本の税理士試験より難関そうです。
試験は11月第2週目に3日間連続して午前9時から午後4時まで6科目の認定試験を受けます。合格発表は州によって違うそうですが、ほとんどは年内にあるそうです。ここノートラインゼストワーレン州(デュッセルドルフやボンがある州)では、一ヶ月遅れの1月に合格発表があるようです。日本は毎年1回、8月上旬に試験があり、合格発表が12月中旬とはいささか長すぎると思います。受験生の常識となっていますが、合格者の調整(毎年受験者の2%前後しか合格させない。)のための期間です。このシステムも変えないと行けませんよね。
さて、ドイツでは合格の認定がされて本試験までは各人の認定の評価によって違うのでしょうが4週間から12週間程度、予備校へ行かなければならないそうです。大きな税理士事務所はホリデイを与えてくれたり、有休で研修を受けさせてくれたりするそうですが、その代わり2年間その事務所で働くことが条件として付されることもあるということです。合格するのにお金と時間がかかることはドイツ国内でもでもあまり知られていないそうです。
ペーパー試験は成績が良い方から1~6段階の評価があり、5以上は不合格になるそうです。1や2段階の成績で通った受験生がいるとは聞いたことがないそうで、受験者のほとんどが3と4段階の評価で合格するようです。ペーパー試験で合格した後、3月に口頭試問があそうです。出題されてから30分考える時間を与えられるが参考書などは見ることはできないそうです。ペーパー試験と同じ科目から出題され、1科目につき10分で適切な回答をしないといけないとのことです。口頭試問は、日本も司法試験や弁理士試験では課されていますが、税理士試験では課されていません。おそらく、口頭試問を日本の税理士試験に取り入れたら受験者は激減するかもしれません。そうでなくても、私が受験していた頃(四半世紀前)の受験者数は約6万人から4万人を割っているのが実態です。
娘さんは日本で受験して資格を取る方が簡単で早く受かると思うが、日本で取った資格はドイツでは使えないので残念だとしきりに言っていました。
税理士の社会的評価は弁護士の評価と全く一緒であるとのことでした。税務署でも経験と知識を増やすのにかなりの研修があるそうで、その研修を受ければ税務署勤務経験者の税理士試験も通りやすくなるかもしれないが、その研修のレベルはけっして低くないらしいということでした。また、日本のように試験免除制度はあるそうですが、大学教授や裁判官などに限られるそうです。いずにしても日本もかなり難関です。
税務調査は長いものでは2週間あるらしく、税法だけでなくユーロのさまざま法律に適合しているか、労働時間は適正なのかのチェックもあるそうです。短いものでは2時間で終了する時もまれにあるようです。税理士は必ず立ち会いをするのが原則で、税務調査をして税務署の方で納得できない場合は、しばらくして無予告調査がありパソコンも含め一式没収されるそうです。日本でいう査察?に近いのでしょうか。通常の場合では事前通告が税理士のところにされるそうでが、無予告調査では税理士は何もできず、できることといえば弁護士を呼ぶことくらいらしいのです。
話し始めてからすでに2時間が経過、そろそろ娘さんも通訳をする娘も疲れてきているようなので最後の質問としてドイツにおけるタックスヘイブンの事を聞きました。
ドイツでも日本と同じで税金を安くしたいならベルギーに本社を置き、人件費を安くしたいならポーランドに工場を移すことが横行しているとのことでした。税理士(お母さん)の話では「ドイツの付加価値(稼得した所得)はドイツで課税すべきであるが、そうした規制がないことは問題だ」と話しておられました。
ローソクの灯の中2時間半の対話が終わりました。最後にお母さん娘さんと3人でオフィスにて記念撮影をして、またの再会を約束しました。玄関を出るとき娘さんが「さよなら」と日本語で言ってくれたのはとても印象的でした。午後5時、もっと聞きたかったとの思いもありましたが、妻と娘の「もうこれ以上の時間をとってもらうのはご迷惑よ。」との声に寂しくアパートへ帰りました。
何故このような出会いができたのかはひとえに娘のお陰です。ドイツへ渡航前からドイツ人の税理士にぜひ会って対談したい旨のことを私が懇願していました。娘のアパートのすぐ近くに税理士事務所の看板を掲げているのを見つけて思い切って訪問してくれ、私との懇談を実現させてくれたのです。たまたま税理士の娘さんは娘の職場であるドイツ国際平和村との関わりがあることも幸いしたようです。
娘さんの同級生で仲の良いベトナム人がいたのですが、その当時ベトナム戦争があり平和村は南ベトナムの子どもたちを受け入れていたそうです。戦争は北ベトナムが勝利し社会主義政権へ大きく舵を切るのですが、当時の西ドイツは「資本主義社会」でそこで教育を受けた平和村の子どもたちを「北ベトナム」としては受け入れすることを拒否、そのため帰るところを失った平和村の子どもたちは帰国できずに、ドイツで生きていくしかなかったという悲しい歴史があるそうです。そんなベトナム人の友人を持つ娘さんとの出会いは私たちにとって偶然の産物です。そんな機会を与えてくれた娘に感謝します。