2001年5月に阿蘇山に登ってから16年間という長き時間とお金を費やしてついに日本100名山達成をしました。
当初は、8月9日の私の還暦の誕生日にもうすぐ4歳になる孫も含めて千葉にいる娘家族も含めて登山をするつもりで、レンタカーやホテルの手配もしていたのですが、台風として19日間存在したこれまでで1位タイの長寿台風となった台風5号でボツになりました。
今度は、2人目の孫のお宮参りを9月16日にするというので、妻と2人で登り、蔵王温泉と米沢牛を食する計画を立てましたが、気象庁の予報が大きく外れ、大きくUターンし日本列島を縦断し3連休は台無しになりました。17日までは予約便の変更はできるとのことでしたが、台風の進路と登山がまったく重なってしまうので、新たにチケットを買って16日の最終便で帰山しました。
3度目の正直と言う諺の通り、10月13日(金)ある研修を受講して、その後の交流会に参加し、最終の新幹線の一本前の山形行きの新幹線にかろうじて乗れました。しかし、自由席は、おそらく単身赴任をしているサラリーマンと思われる方が多数乗られていました。私は偶然にも1席空いていたところに何とか座れましたが、ずいぶんと座れない方もおられました。
日帰りで登ろうと考えていたので、ロープウェイを使って1,661㍍の標高までと考えていました。ロープウェイの運行が始まる8時半までに着けば良いと考え、山形駅発7時40分発、蔵王温泉バスターミナル着8時17分で十分と考えていました。因みにバスは、1時間に1本しかありません。ところが、ロープウェイ乗り場に着いたら、何と団体さんの人盛りで、3本目でやっとロープウェイに乗ることができました。
地蔵山頂駅を9時25分に出発し、地蔵山を経由し蔵王山の山頂である熊野岳(1,841㍍)に着いたのが10時10分、妻が作ってくれたプレートを持って記念写真を撮りました。近くにたまたまいた青年のうち1人が山口県岩国市の出身だと言うことで話も弾み、祝福の握手(欧米だとそこの場面ではハグなのでしょうが。)もしてくれました。
時間の制約もあったので、熊野岳を10時25分に出発、今度は地蔵山をスルーして急ぎ足で地蔵山頂駅まで30分で下りてきました。ところが、予定していたバスに5分違いで乗り遅れてしまいました。ふと目にすると、十割そばと温泉がセットになったお店があってそこに飛び込みました。12時近くになるとお客さんが多くなるからと、食堂が開く11時半を待って、「急いでお願いします。」と店員さんにお願いし、10分で食事し、蔵王温泉に浸かりました。日本で2番目に酸性度が高い温泉だそうですが、次のバスを逃したらまた1時間待ちぼうけになるので、さながらカラスの行水のようなお風呂になりましたが、何とかバスに間に合い、JR山形駅で比較的ゆっくりお土産などを購入することができました。
さて、残りが1桁になった2015年頃から最後の山は、日本100名山でも家族で登山が楽しめる蔵王山と決めていました。昨年までに97座となりましたが、今年残した98座目と99座目の山でかなりの苦労をしました。
まず98座目は、7月14日(金)に福岡空港から新千歳まで飛んで、レンタカーを借りて、そこからの東大雪荘という宿までの時間がかかったのとコンビニ探しに往生したことと、天気予報では雨だと言うことで大変な山行になるなと覚悟したトムラウシ山(2,141㍍)でした。しかし、山の天候はわからないもので、本番15日(土)は、雨どころかピーカンの雲1つない晴天でした。
朝3時に起床し、4時から登山開始。最初は楽な山道でしたが、沢をわたり、雪渓を登り、次には岩場が出現、順調に10時には山頂にたどり着きました。いっしょに行った山仲間も絶好調でした。ところが日差しの強さと気温が高いので下山の途中から悪い予感がしてきました。もしかしてけいれんなどのアクシデントがあるのではないかと。悪い予感は的中するもので、残り約1時間で登山口の所まできたときにそれが現実になりました。徐々に違和感があり、ついにはけいれんを起こしてしまい、まったく歩けなくなりました。漢方薬で効果は抜群にあると言われている芍薬甘草湯(シャクヤクカンゾウトウ)を持っていたのですぐに呑みましたが、その効果も余りなく、あとは気合いと根性でこれ以上ゆっくりは歩けないだろうというスピードに減速しました。その甲斐あって何とか登山口までたどり着くことができました。
この山は、2009年7月16日早朝から夕方にかけて悪天候に見舞われ、ツアーガイドを含む登山者8名が低体温症で死亡するという山岳事故が起こった山です。とりあえず何とかなって良かったです。しかし、翌日にもアクシデント。レンタカーがパンクをしているのです。幸い同行した人がパンクなどの車関係の整備などに手慣れた人で、短時間で非常用タイヤに取り替えてくれたおかげで、余裕を持ってレンタカー会社に帰還できました。同行した人がいなければ、おそらくこの山には登れなかったと思います。
そして99座目は難関の黒部五郎岳(2,840㍍、北アルプスの最深部にあり、どのルートを使ってもかなりハードな山。)でした。この山は、同行できる人がいなくて単独で登りました。7月22日(土)東京での会合が終わっていつものように交流会を済ませていたら山口宇部空港行きの最終便には間に合わないので、発想を変えて1時間遅い最終便ある富山空港に行って少し体を休めておこうと思いました。23日(日)、8時54分発の電鉄富山(バスが1日4本しかなくこの電車に乗らなければ登山口までたどり着けません)でしたので、体力は温存できました。電車で私よりも高齢の仕事をリタイアした3人組と仲が良くなり、太郎平小屋まで一緒に行くことになりました。最高齢の方は、後期高齢者の方でしたが、コースタイムよりも1時間早くその日の山小屋である太郎平小屋まで到着。週間気象予報で雨になることはわかっていたのですが、猛暑よりましかとポジティブに考えました。
この日は、日曜日でしかも外は大雨なので、テント泊の人も山小屋に泊まったので山小屋はいっぱいでした。雨でぼとぼとの衣服も乾燥室の衣服の多さに乾燥が間に合いませんでした。仕方がないので、自分の体温で乾燥させました。山小屋は宿泊者が多く、食事をとるのが30分遅れ、6時山小屋を出発する予定が30分出遅れました。また、この日はこの折立ルートからの黒部五郎岳に行く人もいなくて少々心細かったのですが、単独で出発しました。登山ルートは整備されていて間違いをするところもなかったはずなのに、どこでどう間違えたのかルートから外れ、いつのまにか岩場の変な所に入り込んでしまいました。1時間近く正規のルートに戻るため岩場を彷徨いました。幸いにも黄色のペンキが塗ってあったのでそれを頼りに何とか正規のルートに戻れました。
たまたま、大阪から来たというテント泊の若い(おそらく30歳代だと思いました。)女性2人、男性11人のパーティーと遭遇しました。聞くと黒部五郎まで行くというので、あとを着いていきました。しかし、私とは歩く速さが違いました。彼女らが休憩したときに私が追いつくといった感じでした。黒部五郎岳へあと10分という別れ(分岐点)の表示板で写真のシャッターを押してあげました。それから、とにかく自分の観念の中には彼女らについて行けば、残り10分程度で黒部五郎岳につけるということしかありませんでした。彼女らの歩くスピードが早くて、なかなか追いつくことはできませんでしたが、彼女らが目の前にちらっと見えるぐらいに私もアクセル全開でついて行きました。長い10分だとは思いましたが、山の表示はあと○○○㍍と言っても実際はものすごい時間がかかることは経験則上あったので、ひたすらついて行きました。しかし、岩場が増え、雪渓も多くなり、1時間以上も歩いたので、さすがにしんがりの女性に聞きました。「黒部五郎岳はまだですか。」そしたら彼女は、「とっくに通過したわよ。私たちが行くのは黒部五郎小屋よ。」そうだったのか、黒部五郎岳ではなく、黒部五郎小屋だったのか。「後悔先に立たず」でした。頭に描いたのは約2時間のロス、明るいうちに山小屋に着けるだろうかだけでした。
とにかく必死で引き返しました。そしたら、黒部五郎岳は、別れの表示板通り10分の所にありました。ただ少し山頂が奥まっているので、急いでいたので見落としただけでした。
そこからは、時間との戦い、宿に出した下山予定の16時はあっという間に過ぎ、休憩もせず、水分補給だけで前を向いて歩くだけでした。山小屋が見えて、胸をなで下ろしました。到着は約3時間遅れの19時前、すでに妻の携帯には16時に帰ることになっているのにまだ帰られませんと、富山県山岳救助隊から連絡がありました。山小屋に帰って、一斉に山小屋のスタッフ全員から私が無事に帰ってきたことへの安堵感だろうと思いますが、一斉に拍手がありました。しかし、妻にはめちゃくちゃ怒られました。山岳救助隊の隊員からも事情聴取がありましたが、今回の遅れは「遭難ではありません。ただ、もう少し安全に対する努力をして下さいね。それから、こんなことがあっても山を嫌いにならないで下さいよ。捜索は、スタンバイはしていたけど、日が落ちてからするようにと言う指示を出していないですし、誰も動いていませんので気にされないように。」との話がありました。
山小屋への帰りが遅くなったので、初めてスタッフの人や山岳救助隊の人と晩ご飯を食べることになりました。かなり落ち込んでいる私に気を遣ってか、山の話は一切なしでたわいのない話をしていました。
昨日の3人組の人も明日からも天気が悪いので予定を変更して、明日下山をするということになり、再びご一緒されることになりました。私は、亀谷温泉で下り、お風呂と食事を済ませ、次のバスまでの1時間20分をゆっくりと過ごし、3日間とも雨模様の山行の反省をしました。あとは、電車に乗り換え空港に早めに行き、空港内にあるラウンジで体を休め最終の便で山口宇部空港に到着しました。
特に今年の2座はしんどかったです。他にも100名山に伴うエピソードはたくさんありましたが、かなりの山をご一緒させていただいた業界の4人の仲間や個人的なつながりのある仲間、地元の山岳連盟の方々、山でご一緒して手助けをしていただいた名も知れぬ方、そしてクラブツーリズムなどの旅行社などの協力がなければこの100名山の達成は到底困難でした。また、職場のスタッフにも迷惑をかけたと思います。もちろん最愛の妻にも。そうした多くの人に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
読図やコンパスの使い方、遭難したときの行動、レスキューの仕方など基本的なことがあまりマスターできていないのに、何とか100名山を達成できたのも、明確な目標を定め、1座1座、いろんな人の力を借り、あるいは自らの力で、と言っても準備不足や途迷いも1回や2回ではありませんが、何とか「継続」し続けたことにあります。
最後に言いたいことは、登山にしても他のなにかをやるにしても「継続は力なり」と言うことを言葉だけでなく、実践することがいかに大事かと言うことです。20代までの私にはそうしたものがまったく備わっていませんでしたが、30歳を期して未成年から吸っていたたばこを止めることから始まり、税理士試験でも「継続する力」をもらったような気がします。私には才能というものはありませんが、唯一あるとすれば「継続する力」だろうと思っている今日この頃です。